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学校生活

#19 イスラム教の行事②-3「イフタール体験」【トルコ滞在記】

更新日時:2022年10月27日

#19 イスラム教の行事②-3「イフタール体験」【トルコ滞在記】

これが用意されているイフタルの箱入りの食事



#19 イスラム教の行事④「イフタール体験」 (2014年7月23日)

先日、同居人のAliさんといっしょにタクシム広場のイフタールに参加してきました。

タクシム広場にはラマザン中、特設ステージが設営され、夕方になると1000人近く収容できるであろうテーブルとイスが並べられます。テーブルの上にはイフタールの食事の入った箱と水が置かれています。会場の周囲は柵で囲われています。

この日の日没=イフタール開始は20:44。20時ごろに入場開始だというので、私たちは19:30ごろに並びました。それでもすでにたくさんの人が来ています。トルコの方々は、中国の方と同じく、順番に並ぶということが非常に苦手なようで、バスや地下鉄といった公共の場所でも自分さえよければいいといった調子で、いつもうんざりさせられます。

入場開始になると、数か所の入り口が開き、人々がなだれこんできました。自分の場所を確保する争いは凄まじいものでした。私とAliさんは席につけたからよかったのですが、周囲を見回すと、食事の入った一つの箱を奪い合っている人、何か言い合いをしている人。一人で二つの箱を確保して座り、スタッフから「何で一人で二つも持っているのか」と尋ねられると、逆ギレして箱を置いて帰ってしまう人。


そして、シリア難民の子供たちやロマの子供たちも会場に入って来て、あわよくば食事の箱を持ち去ろうとしたり、人々からパンや水を分けてもらおうとしたりしています。しかし、スタッフが耳をつまんで会場の外へ引っぱって行ったり、ものすごい剣幕で怒鳴りつけたりしています。特にロマの子供たちは汚れた服装でいかにも貧しそうでかわいそうに思ったのですが、周囲のトルコ人たちはみな知らんぷりを決め込んでいます。
(「ロマ」は放浪の民で、ヨーロッパで長く迫害されてきた歴史を持ち、現在でもヨーロッパ中でロマに対する差別がまた活発化してきています。関心のある人は自分で調べてみてください)
この会場、一言で言い表すとまさに「戦場」といった感じでした。


箱の中はそれほど豪華なものではありません

そんな様子を見て、「イスラムの教えはどこへ行った?」と思いました。
イスラム教では神聖なラマザン期間中に、イスラムの教えの説く「誠実」や「他者への寛容」や「貧しい者への施し」を実践しないのか?断食という行為を形ばかり行っていても意味があるのか?
疑問がふつふつと湧き上がってきました。そしてあることを思い出し、納得しました。

2009年のラマザン期間中、一か月にわたり中東全域で放送された『ハワーテル(思考)』というテレビ番組。これはサウジアラビア人の記者が日本の生活に密着して、日本人の姿を伝えたものです。
わざと財布を路上に落として、それがどうなるかの実験をしたり(もちろん交番に届けられ、警察からその記者に連絡が来ました)、日本の学校では生徒たち自身で掃除をすること、給食の前にはきちんと手を洗い、給食当番は清潔なかっぽう着を着て盛りつけることなどなど日本人にとっては当たり前の礼儀やマナー、行動規範が紹介され、中東全域で大きな話題となりました。
イスラム教でも「身辺を清潔に保つこと」、「他者を尊重すること」、「誠実であること」などを説くのですが、それが実践できていないようです。だからこそ、トルコを含め中東の人々は日本人の倫理道徳の高さを評価し、それが親日感情につながる一つの要因となっているのです。
何人かのトルコ人にも今まで言われたことがあります。「日本人はムスリムでもないし、礼拝もしないけれど、誠実さや勤勉さや清潔さという点では、よっぽどイスラムの教えを実践している。だから私は日本人が好きなんだ」と。 もちろん日本人すべてが倫理道徳が高いわけではないので、そのようなことを言われると面映ゆい感じもしますが、でもありがたいことです。


シリア難民やロマの子供が来てもみんな無視


イフタールに話を戻しますと、そういったことを思い出し、われ先にと利己主義丸出しの行動をする人々に「あぁ、やっぱりな」と思いました。前回の記事で紹介した、イスタンブール県知事やベイオール市長の言葉と現実とは違うじゃないかとも。もちろん、そのような光景に首をかしげている人々も少ないながらもいましたし、日本人だって同じような状況でこういった行動をとる人もいることでしょう。
しかし、こんなに人々の醜い面ばかりを目にするくらいなら、自治体が設置した会場などでのイフタールには二度と参加しないと決めました。イフタールは身近な人と、家庭やレストランで食卓を囲んでいた方がいいのではないかと思いました。
イスラム教にとって神聖なラマザン中に、なんとも残念な皮肉な体験となりました。



※本連載は、2014年~2015年にかけて掲載していた記事の復刻になります。
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