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学校生活

教員つれづれ草 25段

更新日時:2010年5月19日

教員つれづれ草 25段

 

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教員つれづれ草 25段

 みなさん、初めまして。大妻多摩中学高等学校国語科の小野と申します。 私は、国語の授業に登場する、古今の様々なすごい人・奇人変人・素晴らしい人の、すごい話・笑える話・感動的な話などを、肩の凝らない読み物として紹介していきます。題して「日本すごい人列伝」です。 第1回目は、藤原佐理(ふじわらのすけまさ。名前は「さり」とも。944~998年)です。


 平安時代の貴族・藤原佐理は、書の名人として有名で、同じ名人の小野道風、藤原行成と共に「三蹟(さんせき)」と称されています。どれくらいの実力だったかというと、『大鏡』という歴史物語に、次のような話が記されているほどです。


 佐理が、京都に帰る旅の途中で暴風雨にあい、同じ場所で数日間足止めを食ってしまいます。あまりにも雨風がひどいので占ってみると、「神様の祟(たた)りである」という結果でした。祟られる理由もないのにと不思議に思っていると、佐理の夢に、ある神社の神様がお出ましになりました。神様のおっしゃるには、「暴風雨は私が起こしているものである。実は、他の神社には立派な額(がく)が掛かっているのに、我が神社にだけはそれがない。そこで、額を掛けようと思うのだが、ありふれた者に字を書かせるのもよろしくない。そこで、何とか貴殿に字を書いてもらおうと思って、この地に足止めしているのである」とのことでした。佐理は、この依頼を承知したところで目覚めました。このあと佐理は、心身を清めて神社の額を書き、旅を再開しました。すると今度は、天候に何の心配もなく、無事に京都に帰り着いたのでした。


 この他にも、内裏(だいり)の門などの額を書いたところ、時の円融(えんゆう)天皇がそれをご覧になっていたく感心なさった(『日本紀略』による)、など、優れた書に関するエピソードには事欠きません。 夢の中で神様にじきじきに揮毫(きごう)を依頼されるほどの名人・佐理の書は、現在でも数点残っています。その中の「詩懐紙(しかいし)」「離洛帖(りらくじょう)」は国宝です。


 ところが、この佐理は、いい加減でだらしない性格の人としても有名でした。また、たいへんな酒飲みで、酒による失敗も多かったようです。そのためか、現存する書状はお詫びの書状ばかりです。国宝「離洛帖」も、京都から九州の大宰府(だざいふ)に赴任する際に、時の摂政に挨拶をするのをすっかり忘れてしまっていたことを思い出し、旅先から摂政へのとりなしを依頼した手紙です。しかも、3箇月以上経って、都から遠く離れた長門(現在の山口県)に来てから書いた詫び状なのですから、相当のんきなものです。
そんなわけで、『大鏡』には、「御心ばへぞ、懈怠(けだい)者、少しは如泥(じよでい)人とも聞こえつべくおはせし」(=佐理様は、ご気質がものぐさで、だらしない人と申し上げるべき方でいらっしゃいました)などと書かれる始末でした。晩年の任地である九州でも、宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)と大喧嘩をしてしまい、仕事を辞めさせられています。


 藤原佐理は、ほんとうの芸術家で、役人には向いていない人だったのかもしれません。しかし、その素晴らしい書風は、三蹟の中でも特に「佐蹟(させき。「佐理の筆跡」の意)」と呼ばれて長く尊ばれました。


 ちなみに、国宝「離洛帖」は、現在、東京・白金台の畠山美術館に収蔵されています。


国語科 小野