【2018年度】大妻先生を偲ぶ日
更新日時:2018年12月3日
12月3日は本校の創立者である「大妻先生を偲ぶ日」でした。本来の命日は1月3日ですが、その日は冬休みに入ってしまうため、1か月前の12月3日が「大妻先生を偲ぶ日」となっています。
今年度は、大妻コタカ先生の生涯について紹介します。
大妻コタカ先生は明治17年、広島県で生まれました。幼い時に両親を亡くしながらも学問や農作業に一生懸命取り組み、14歳で裁縫講習所に入学しました。
17歳になるとさらに勉強をしたいと思うようになり、上京して和洋裁縫女学校で洋裁と和裁を学びました。朝は4時に起きて7時まで家事をし、授業中は「なんでも覚えたい」と意欲的に学習しました。帰宅後はわずかな時間で授業の予習・復習を行い、家事や勉学で忙しい日々を送っていました。
22歳で当時日清戦争の兵隊であった大妻良馬先生と結婚し、コタカ先生は自宅で裁縫・手芸の「家塾」を開きました。この塾は遠方からも受講生が集まり、やがて「大妻技芸伝習所」と名称を変え夜間授業も行うようになりました。大正4年には第1回作品展覧会を開催し、多くの入場者を集め“大妻”の名は全国に広まっていきました。
展覧会の影響もあり、コタカ先生の「家塾」は国から正式に“学校”として認められ、「私立大妻技芸学校」と名称を変え、「恥を知れ」の校訓のもと校歌も制定されました。また、校主となった良馬先生は「理想は高遠に実行は足元から」をモットーに学校の成長に努めました。
このように順調な学校経営が行われていましたが、大正12年の関東大震災で校舎は全焼してしまいました。さらにその数年後、良馬先生は肺炎で亡くなりました。コタカ先生は1人で学校の復旧に励んだものの、東京大空襲により再度木造校舎は全焼してしまいました。しかしコタカ先生は空襲時も校長室を離れず、野草を摘み雑炊を炊いて焼け出された人々を迎え入れていました。
敗戦後、コタカ先生は教育の復興と校舎の整備に全力を尽くしましたが、突如公職追放令を受け、立ち退きを迫られました。私財を持たないコタカ先生は路頭に迷う状況となり、追放解除までの5年間はずっと知人の家で生活をしていました。
昭和27年、公職追放を解かれたコタカ先生は大妻学院の理事長として復帰し、中・高校舎、大学校舎を次々と建設しました。良き妻、賢い妻、役立つ社会人の教育一筋に報恩感謝の理念を掲げ続け、昭和45年に85歳で永眠されました。
大妻多摩は、高校が昭和63年、中学校は平成6年に設立された大妻学院の中でも比較的新しい学校ですが、糸巻きをモチーフにした校章や「恥を知れ」という校訓は昔と変わっていません。今でも大妻コタカ先生の教えは私たちに受け継がれています。
校舎内にある大妻コタカ先生の肖像画の前にきれいなお花を供えました。