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【校長室より】上橋菜穂子著『鹿の王』

更新日時:2020年8月17日

【校長室より】上橋菜穂子著『鹿の王』

上橋菜穂子著、『鹿の王』(上下巻と)を読み直す。+『鹿の王 水底の橋』(角川書店)を読む。

7月25日『朝日新聞』Digitalに上橋菜穂子さんが載せた「ウイルスが揺さぶる私たち、変化の契機に」をお読みになったでしょうか。

 

 ウイルスは不思議な存在です。

  百年に一度と言われる恐ろしい災厄の只中にある今は厄介なものとしか思えませんが、私たちはウイルスが存在しなければ、この世に生まれてくることすら出来ないのかもしれません。なんと胎盤形成にウイルスが関与しているそうですから。(中略)

 

  群れで生きる私たちにとっては「社会」も生存に必須ですから、自然科学系だけでなく、政治や経済、文化、福祉、外交など様々な分野のプロフェッショナルが国境を超えて議論を深めることが出来る場が必要なのだと。多様な立場を調整することは困難を極めるでしょうが、そういう場で何かを見いだせたら、多くの人が各自の得意分野で働き、変化が始まる気がします。

 

  ウイルスが、今、私たちを揺さぶっています。私たちは変わることが出来るでしょうか。

 

上橋さんのこの文章を読んで、そういえば上橋さんは数年前に、人々を死に至らしめる「黒狼熱」大流行についての本をお書きになっていたのだと思い出しました。目の前のコロナ禍に惑わされてうかつにも忘れていた私ですが、その本とは上橋さんが「守り人シリーズ」などの功績により国際アンデルセン賞を受賞なさった後の第一作目として2014年に書かれ、2015年の第12回本屋大賞と日本医師会が主催している第4回日本医療小説大賞を受賞した『鹿の王』のことです。

 

物語は、地底のアカファ岩塩鉱で獣に襲われ一人だけ生き残った奴隷のヴァンが、やはり生きながらえた幼子を連れて逃亡する場面から始まります。彼はかつては飛鹿と呼ばれる鹿を操って戦う戦士「独角」の頭でしたが、東乎瑠(ツオル)帝国に故郷を追われ、ユナと名付けた幼子と共に追っ手から逃れる旅に出ます。

『鹿の王』にはもう一人主人公がいます。それは東乎瑠の医術師ホッサルであり、彼は岩塩鉱で獣にかまれた奴隷たちに謎の病気が流行して、ほぼ全員が死んでしまったにもかかわらず生き延びた者がいることを不思議に思い、その逃亡奴隷を捜索することになります。「同じ病に罹る人もいれば罹らぬ人もいる。罹ってすぐ死ぬ人もいれば、生き延びてしまう人もいる。そこに、病というものの本質のひとつが潜んでいると、私は思っているのです」。その病が「黒狼熱」という感染症だと感じたホッサルは治療法を探りますが、一方で治療よりも「清らかな生を心安らかに全うできるよう尽くす」清心教医術の祭司医の存在が彼の前に立ちはだかります。

 

ホッサルは民族によって発病する場合とそうでない場合があることを突き止め、毒を弱めた病素を用いて、その病素に抗しうる力を人の身体に与える「弱毒薬」の研究や、病素の活動を抑える力をもった素材を用いて「抗病素薬」の作成、感染者の身体が作っていた、病と闘う成分を精製した「血漿体薬」の製造など、現代の西洋医学にも通じる研究にまい進する姿が描かれます。

 

『鹿の王』の続編として書かれた『鹿の王 水底の橋』(角川文庫)は、「黒狼熱」終息後のホッサルの施療院「小さき者たちの巣」から始まります。東乎瑠に飲み込まれ国を持たないオタワルの天才医術師として、東乎瑠の医術を司る祭司医と対決しながらもその腕を買われたホッサルは、皇帝の妃を難病から救ったことから宮廷から重用されていました。その彼が清心教の祭司医である真那の兄の娘の治療を頼まれたことから、ホッサルは清心教の原点である「花部流医術」を知ることとなります。

 

この本は20196月に出版されましたが、私がこの度手に入れた20206月に出版された文庫本には、2019年に出版された際のあとがきと、文庫版のあとがきの両方が掲載されています。まず2019年のあとがきには、この本が執筆された経緯、つまり上橋さんがお母様を送り、お父様に施設に入れたというより自発的に入っていただいたことが書かれています。お母様の病気の看病をする中で、聖路加国際病院の津田篤太郎医師との出会いがこの本を生み出す大きな力となったといいます。それは津田医師が西洋医学と東洋医学の両方を取り入れた診療をしている方であり、医学監修も引き受けてくれたからでした。「人は、答えが出ないとわかっている問いを、果てしなく問い続けるような脳を与えられて、生まれてきたのでしょうか。なんのために生まれ、なんのために行き、何のために死ぬのか」、上橋さんのこのような問いから、東洋医学の「気」と宗教について、直観、AIに至るまでの津田医師との往復書簡は『ほの暗い永久(とわ)から出でて 生と死を巡る対話』(文藝春秋、2017に収められています。

 

そして『鹿の王 水底の橋』の2020328日に書かれたという文庫本のあとがき「私たちはいま、歴史を作っている」で上橋さんは、新型コロナウィルスの流行により首都圏で週末の外出自粛が呼び掛けられていると近況を語り、この本の執筆中には考えもしなかったことが現実に起きていることに驚きつつも、上橋さんは次のように書いています。21世紀の今も、人類はまだ、ウイルス感染症を完全に克服する術を持ってはいません」、「私たちの武器は知識と想像力と忍耐力、そして他者を助けたいと思う気持ちです」と。

 

朝日新聞の記事を契機にこのお盆休みに読み返した『鹿の王』(上下巻)と続編の『鹿の王 水底の橋』、そして上橋さんと津田医師との往復書簡は、コロナ禍真っただ中の私たちに突き付けられた生と死について、そして歴史的に繰り返される人間と感染症との戦いについて深く考えさせられる本でした。

 

前にも書いたことがありますが、上橋先生は私の前任校での同僚であり、先生の方がずっとお若いのですが、大学で文化人類学を教えながら執筆をしていらっしゃるのを身近に拝見しており、洋画家であるお父様の個展に呼んでいただいたり、上橋先生の才能をとても誇りに思っていらっしゃるお母様とも親しくお話したこともありました。「守り人シリーズ」の英訳が出版されると真っ先にサインをいただこうと研究室まで伺ったり、ある時は一般読者対象のサイン会にも列に並んでサインをいただいたりしました。『鹿の王』は前に読んでいましたが、全世界で新型コロナウィルスの感染者が広がるなか、いまだに特効薬もワクチンも見つかっていない状況で改めて読んでみると、異世界を縦横無尽に描写しつつも人間の生死という根源的なものを描く上橋先生の鋭い視点と深い洞察、さらに西洋医学に加えて伝統的な東洋医学や漢方薬の効能などとの融合など驚かされることばかりでした。上橋先生は20207月にその著作による社会貢献が評価されたとして第15回日本文化人類学会賞を受賞しています。インターネットには受賞に際して先生の講演が載っていますので関心のあるかたはご覧ください。

 

中高生のみなさん、そして小学生のみなさんにもおなじみの上橋先生のこの本を推薦図書としてご紹介しますのでぜひ読んでみてください。

おまけ:みんなのレビューにて、上橋菜穂子先生の関連本「バルサの食卓」を紹介しています。