大妻多摩中学高等学校

第49段

 国語科・小野の、「日本すごい人列伝」第4回、「偉大なる暗闇・岩元禎―後篇」です。

 今回は、岩元禎(いわもと・てい。1869~1941)の、一高ドイツ語教師としての破天荒なエピソードの数々を紹介します。

 岩元が授業で使うテキストは、日本の教科書会社が発行している本などではなく、いつも丸善を通して取り寄せたドイツの原書でした。もちろん訳本などは存在しませんから、生徒はたまりません。授業は、基本的には岩元が訳すだけ。ある時、生徒の一人が「先生、予習は必要ありますか」と質問したところ、岩元は「お前たちに予習の能力などあるものかッ」と一蹴したそうです。ごく稀に生徒を当てることがありましたが、当たった生徒が間違った訳を言うたびに、「こらッ!」「馬鹿ッ!」と怒っていました。

 岩元は、もの凄いスピードで訳していましたが、それでいて、生徒は授業中にメモを取ることを厳禁されていました。ノートを取ってもいけないし、本に書き込みをしてもいけなかったのです。このことは、年度の初めに生徒にしっかりと言い渡されていました。岩元は、鋭い眼光で、
「わしゃ言っとくがね。本にアンダーラインをしたり、仮名をつけたりするもんじゃ、決してありゃせんからね。本は大事にして決して汚すもんじゃないぜ君。もしそれをするやつがあったら、わしゃ許さんからね。その本を引っ裂いて、その人はもちろん零点にするからそのつもりでおいでなさい」
と宣言するのです(竹内洋『日本の近代12 学歴貴族の栄光と挫折』)。偉大な学者が何年も心血を注いで書きあげた本に、学生の分際で書き込みをするなど僭越(せんえつ)の至りだ、というわけです。書き込みを見つけると、岩元は「怪しからん!」と怒鳴りあげて、本当に本を引き裂いたそうです(もちろん、「書き込みがいけないなら、本を破るなどもっといけないことでなのではないですか」などと言ってはいけません。そんなことを言ったら、もっと怒鳴られます)。

 そのような厳しい授業をすると共に、試験における訳は、自分(岩元)の訳以外は一切認めませんでした。岩元訳では、例えば、Dorfは「村」ではなく「鄙(ひな)」、Karikaturは「戯画」「カリカチュア」ではなく「鳥羽絵(とばえ)」でなければならない、といった調子でした(竹内洋前掲書)。また、試験問題の文字が読みにくかったので、ある生徒が「ここは何と読むのですか」と訊ねたところ、岩元は「馬鹿者、人の字がそうたやすく読めるものか。字を読むのも試験うちじゃ」と一喝したとか(高橋英夫『偉大なる暗闇』講談社文芸文庫)。

 それに加えて、試験の採点は徹底的に厳しいものでした。訳を一箇所間違えるごとに5点引きしていった、と言われています。しかも、生徒の取った点数を「A君60点、B君30点、C君0点…」と大声で読み上げました。ある年などは、採点があまりにも厳しくてクラスの半数が落第点をつけられてしまい、教務部が慌てた、などということもありました。

 私の学部学生時代の指導教授だった大野晋(おおの・すすむ。1919~2008)先生は、一高で岩元にドイツ語を習いました。授業後などの雑談で、何度か岩元の思い出を聞いたことがあります。「いやあ、とにかく恐ろしかったねえ。それで、『かのカント氏も我が説に賛成して曰わく』なんていう調子でやるんだな」といった話でした(大野晋『日本語と私』(新潮文庫)に同様の話が出ています)。

 このような岩元の授業や試験のやり方は、確かに今の目から見ればひどいものです。しかし、評論家の高橋英夫氏は「奇抜とも強引とも思えるが、ある意味ではこれはすぐれた教育法だったのではないか」と言います(高橋英夫前掲書)。岩元の授業では、生徒は先生の言うことを耳で覚えるしかなく、「岩元禎の教育は筆記その他の手段にたよらずに、じかに頭で憶えよという教えを含んでいた」というわけです。

 厳しい授業、非常識ともいえる採点方法だけでなく、眉目秀麗な秀才が大好きでかなり露骨に贔屓(ひいき)もしたそうです(例えば、『「いき」の構造』で有名な哲学者・九鬼周造(くき・しゅうぞう)は、岩元のお気に入りでした)。それでも、若い生徒たちに、一生涯消えないような鮮烈な印象を与えた岩元禎。大野晋先生は、「明治時代、ヨーロッパの学問を輸入したころの、横文字を読む学者の権威に満ちた姿を見たように思う」と書いています(大野前掲書)。「バカといわれても、落第点をつけられても誰もうらむ者はいない。“えらい先生”であったと、みななつかしく想うのである」というのは、『嗚呼玉杯に花うけて――第一高等学校八十年史』(昭和47年刊)の中の「一高名物教授」の一節です。もちろん、本の性質上、批判めいたことは書かないでしょうが、生徒たちの岩元への思いが集約されているような言葉です。

 岩元禎の評伝として、本文にも引用した、高橋英夫『偉大なる暗闇』(講談社文芸文庫)があります。ただし、絶版になっていて手に入れにくい状態にあります。

国語科  小野