大妻多摩中学高等学校

第83段

 国語科・小野の、「日本すごい人列伝」第6回、「異色の大衆作家・直木三十五=後篇」です。

 「傲岸(ごうがん)」「不遜(ふそん)」「無口」そして「貧乏」がキイワードの、直木三十五(なおき・さんじゅうご。1891~1934)の「借金取り撃退」に関する有名なエピソードからです。

 大正10年(1921)か11年頃のことです。直木三十五は相変わらずの貧乏暮らし。作家仲間の広津和郎(ひろつ・かずお。1891~1968)が、午後3時頃に直木の家に行くと、縁側に面した八畳間に多くの借金取りが押しかけています。その奥の更に奥の部屋に、直木は寝ています。借金取りから直木が寝ている布団までは見通すことが出来、広津は「まるでお通夜のようですね」などと冗談を言いながら、借金取りと一緒に火鉢を囲みます。まだ起きないのかと不平顔の借金取りに、直木の妻はニコニコしながら「無理に起こすと機嫌が悪いので」などと言って、けして直木を起こしません。そのうちに根負けした借金取りが一人二人と帰って行き、最後に誰もいなくなると、直木は悠然と起き出して、にこりともせずに「みんな帰ったか?」と訊ね、広津の顔を見てひと言「やあ」。

 稀に、しぶとい借金取りが居残っても、詫びたり弁解をしたりなどは絶対にしません。直木は、借金取りが目に入らないかのように平然とタバコを吸い続けます。借金取りがいくら金の催促をしても、無表情で返事をしません。哀願しても怒鳴っても揉み手をしても、直木はやはり返事をしません。借金取りが最後に「植村(直木の本名)さん、それは余りだ、それじゃ、一体どうしてくれるのです?」と言うと、ここでようやく直木は顔を上げて、ぼそぼそと「出来たら払う。今はない」と言います。もう何も出来ない借金取りは、「ではよろしく御願いします」と言って帰って行きます。一部始終を見ていた広津和郎は、落語の名人以上だ、「それ一つを見ても植村宗一は英雄だよ」と感心するのでした。

 今では考えられないような話です。しかし、これには続きがあります。この一件から十数年後のことです。直木は、連載を同時に何本も抱えるような売れっ子作家の仲間入りを果たしていました。ある時、広津和郎が浅草で食事をしていると、見知らぬ男性が「広津さんじゃありませんか」と声をかけてきました。何と、相手の男性は、十数年前に直木の家でよく一緒になった借金取りの一人だったのです。しかも男性は、広津に「直木さんも、とうとう偉くなって。わたしゃあの頃のことを思い出して、嬉しくてたまりません」と言うではありませんか。「あの人はあの頃からえらい人でしたよ。金の催促に行っても、その時は癪にも触りましたが、後で考えるとあんな愉快な人はありませんよ。わたしゃまだ三千円位貸しが取れませんがね、あの人から今になって取ろうとは思いませんや」と言って、直木の文学者としての成功を心底喜ぶのでした(広津和郎『新編 同時代の作家たち』岩波文庫)。

 もちろん、借りた金を返さないのは悪いことです。しかし、直木には卑しさが無かったのでしょう。そして、傲岸・不遜な態度の中にも、利害が衝突する債鬼たちをも虜(とりこ)にしてしまう、何とも言えぬ人間的な魅力があったのでしょう。作家仲間も「彼とともに生きたという記憶が、生涯われわれの心に焼き付いて離れない、それほど特色のある人物だった」と、直木を回想しています(植村鞆音『直木三十五伝』)。

 直木は、広津が目撃した借金取り撃退事件の後も、出版事業・映画事業の失敗、派手な生活などで、更に借金を膨らまします。しかしそれでも、他の人々と同じように直木の人間的魅力に惹きつけられた菊池寛(きくち・かん。作家で、文藝春秋社の創立者)は、損得勘定を抜きにして直木を援助しました。直木も、その温かい援助に応えて、死の前の数年間はたいへんな流行作家となり、多い時は一晩で原稿用紙60枚などという超人的なスピードで原稿を書きまくったのでした。

 しかし、直木がこなした超人的な仕事量は、確実に直木の健康を蝕みました。入院・療養を決意した時には既に手遅れで、直木は昭和9年2月24日に、満43歳の若さで亡くなりました(この直木の命日は、代表作『南国太平記』にちなんで「南国忌」といいます)。菊池寛は、自分の寿命を削るようにして「文藝春秋」に膨大な作品を提供し多くの雑誌企画を提案し続けてくれた年下の友人を記念して、

直木の死の翌年に「芥川賞」と共に「直木賞」を創設し、直木の名を後世に残したのでした。

 余談ですが、昭和10年の「第1回直木賞」の受賞者は、川口松太郎(かわぐち・まつたろう。1899~1985)という作家です。川口浩(テレビ番組『キイハンター』や『川口浩探検隊』シリーズでお馴染み――もっとも、本当に「お馴染み」なのは、ほぼ40歳以上の人に限定されますが――の俳優)のお父さんです。

国語科  小野