大妻多摩中学高等学校

【校長室より】「東京女子医科大学」の創立者

女医を養成する学校「東京女子医科大学」の創立者、吉岡弥生

コタカと弥生①
大妻コタカ先生(左)と吉岡弥生先生(右)

大妻コタカは自伝『ごもくめし』の中で、忘れえぬ人たちとして、「恥を知れ」の直筆を書いていただいた東郷元帥(東郷平八郎)と筝曲家宮城道雄と並んで吉岡弥生の名前を挙げています。コタカより13歳年上の弥生は何かにつけてコタカを引き立ててくれ、コタカの夫良馬が亡くなったとき夫の生命保険をすべて学校に寄付しようとしたとき、少しでも自分のために手元に置くようにと助言したのも弥生でした。昭和22年4月、コタカが「多くの学校の校長でありながら、あらゆる婦人団体に相当な役割をもった故をもって追放する」と文部省適格審査から教職追放の報を受け取ったとき、同じく教職追放の憂き目にあっていた弥生は、子どものいないコタカを訪ねては力づけてくれたといいます。コタカは結局は保険金全額を学校に寄付し、教職追放の際に私財をすべて失うことになるのです。

コタカと弥生②
大妻コタカ先生(左)
吉岡弥生先生(右)

弥生は1871年3月(明治4年)、静岡県掛川市に生まれます。自伝『吉岡弥生』(日本図書センター)によれば、この年は「それまで家のなかに閉じ込められていた婦人の上にも、新しい時代の光が射し込み、……封建制度から解放された日本国民が自由の空気を吸い、新しい生活と創造の一歩を踏みだした、まことに記念すべき年」といえると書いています。5月にはアメリカ人宣教師でローマ字を考案したヘボンの夫人が日本人の女子のために西洋の刺繍や編み物を教え始め、11月には津田梅子ら5人の女学生がアメリカ留学を果たし、さらに12月には文部省から女学校設立の告諭が出されるや、「良妻賢母教育主義の立場から男女を人格的に平等の立場に置いて、生活の独立とか、職業教育とかを吹き込もうとした形跡が感じられる」と記し、この年が日本にとって変革のときだったことがわかります。
弥生は漢方医の父の影響を受け、「東京に出て勉強したい」、「勉強して偉い者になりたい」と考え、女は学問より家庭のほうが大切だと言う父の反対を押し切って、二人の兄が学んだ済生学舎(現、日本医科大)に18歳の時に入学します。

自伝の第二篇「女医の沿革」では女医の歴史を辿り、弥生が日本の女医の元祖だと考えられているようだが、内務省の医術開業試験に合格して女医になった人が自分の前に20数名もいること、荻野吟子や高橋瑞子などの女医の先駆者がいたからこそ今の自分があると書いています。弥生は『古事記』や『日本書紀』にも女医の存在が記されており、以来明治に至るまで女医はいたものの、正式に医術開業試験が女子に対して解放された1884年にようやく女医の資格が認められたとしています。

さて弥生は1892年21歳のときに試験に合格して医師免許を取得、東京で開業しドイツ語を学んだり女学校にも通っています。しかし、自分が卒業した済生学舎が「女子が入学しては学内の風紀が乱れる」という理由から女子の入学を拒否したというニュースを耳にした弥生は、「女子のための医学校を設立しよう」と決心し、1900年に東京女医学校(東京女子医大の前身)を設立します。弥生が29歳の時でした。「婦人の地位を向上せしむるには、まず婦人に経済的能力をあたえなければならず、それには自分が医師でもあるし、また医学医術は婦人に適している立派な職業でもありますから、これを専門に教育する機関を創立することを考えたわけであります。またわたしが学びました済生学舎は共学のために風紀が乱れ、そのため女子の入学を拒絶するようになりましたことも私が女子のみの医育機関の必要を感じた動機の一つでもあります。」東京女子医科大学のHPには弥生の医学校設立のためのこのような決意が掲載されています。「医術医学は婦人に適している」とあくまで女子だけの医学校にこだわった弥生は、HPの文章を次の言葉で締めくくっています。「……いかなる不利な条件があろうとも、この信念を曲げまいと考えて……女子医学教育の必要性を強調したのでありました。その結果、ついに女子科大学が認められることになったわけであります。そして、現在では『東京女子医科大学』が本邦唯一の女子医科大学であります」、と。

「女性は匂いやかであれ」とはコタカが好んで口にしたり書いたりした言葉ですが、これはもともとは吉岡弥生の著書にあったと『母の原像』に記されています。「たとい平凡な一人の女性であっても、私一人がそこにいることによって、何か周囲の人々のために、女性としての小さいつとめを果たすことが出来るならば、幸いであると思います。『女性は匂いやかであれ』 私どもは、いつもなごやかな女性らしさ、ふくよかな女性らしさを失わないように、心したいものであります」。コタカはこのように書いていますが、この言葉には女性は女性らしさを活かしながら社会で役に立ってほしいと願うコタカと弥生の強い思いが込められているようです。