大妻多摩中学高等学校

【校長室より】TPP発効延期により新訳が発行された『クマのプー』(角川文庫)

TPP発効延期により新訳が発行された『クマのプー』(角川文庫)

プーさん①

『朝日新聞』の「天声人語」と『東京新聞』ウェブ版によれば、石井桃子訳で親しまれてきたA.A.ミルン作の『クマのプーさん』(岩波少年文庫、第一刷発行1956年)が新たに森絵都(村上勉絵)によって訳され(タイトルは『クマのプー』)2017年6月に出版されたというので、私もすぐに注文して読んでみました。『クマのプーさん』の原作(Winnie-the-Pooh)がイギリスで出版されたのが1926年、その30年後の1956年に作者が亡くなりますが、死後50年間は日本の著作権法で保護されているため新しい訳を出版することができませんでした。しかし2006年に著作権が切れても、英米仏など第二次大戦の連合国の戦前・戦中の作品にはさらに10年5か月の「戦時加算」が課されるため、ようやく今年の5月21日の保護期間終了後、そして6月に出版の運びになったのでした。角川文庫ではオバマ政権のころに新訳に取り掛かっていたそうですが、TPPが発効していればさらに20年待たなければ日の目を見ることはなかった新しい訳です。

生徒のみなさんには赤いシャツ(パンツははいていない!)を着たディズニーキャラクターの黄色のプーさんがおなじみだと思いますが、わたしは石井桃子訳のE.Hシェパードの挿絵のプーさんほうが親しみがあります。さて、今回の石井桃子訳と森絵都訳はどのように違うのでしょうか。石井訳も2000年に古めかしい言葉をすこし手直ししているそうですが、今回の森訳は会話がぐっと現代表現、つまり「ため口」になっているので、みなさんのような若い読者にはしっくりくると思います。少し例を挙げてみましょう。

時々登場する「わたし」は、プーのお話の語り手であるクリストファーのパパ。話の冒頭で、お気に入りのぬいぐるみのプーを連れたクリストファー・ロビンがパパにお話しをせがみます。

で、今夜は―― 「お話は、どうかな?」と、クリストファー・ロビンはいいました。
「お話がどうしたって?」と、わたしがききました。
「すみませんけど、おとうさん、プーにひとつしてやってくれない」「してやろうかな」と、わたしはいいました。「プーは、どんなお話がすきだっけね?」「じぶんが出てくるお話。プーって、そんなクマなんだよ。」「なるほど。」「だから、すみませんけど。」「じゃ、やってみようかね」(石井訳)

さて、今夜はどちら?「お話はどう?」と、クリストファー・ロビンが言いました。
「なんのお話?」と、わたし。
「プー向きのやつ、できる?」「たぶんね。プーは、どんなお話がすきなのかな」「プー自身のお話だよ。そういうクマなんだ」「ああ、なるほど」「パパ、お願い」「やってみよう」
(森訳)

どうでしょう。森訳は私たちが今なじんでいる話し言葉で、石井訳よりはるかに言葉数が少ない。また会話のリズムが崩れないように「誰それが言いました」というような文は一部省略されています。もう1か所比較してみましょう。同じく第一章の、プーがハチをだまそうとクリストファーに傘がないか尋ねる場面です。

「あなた、家にこうもりもっていますか。」「ああ、もってる。」「それ、もってきてね。それ、さして、ここんとこ歩いて、ときどき、ぼくのほうみてね、『ちぇっ、ちぇっ、雨らしいぞ。』っていってくれるといいんだがなあ。そうすれば、このハチどもだますの、うまくいくと思うんだけど。」(石井訳)

「きみんちに、傘はある?」「そりゃね」「じゃ、それをもってきて、頭の上でさしながら、このへんをうろついてくれないかな。でね、ときどき、ぼくを見上げて、『チッ、雨か』とか、言ってほしいんだ。そしたら、ぼくたちの作戦、もっとうまくいくと思うよ」(森訳)

この場面では石井訳が原作に忠実なのに対して、森訳ではかなり意訳しています。

プーさん②

石井訳は2000年に手直ししたとはいっても、わざわざ50年前の表現を残しているところがあります。それはプーとコブタが追いかける謎の動物について、石井訳では「敵性動物」、森訳では「あらくれもの」と訳されています。「敵性」とは戦争状態にあるときの敵国を指すので、さすが戦後10年足らずに出版された訳だと思いました。ご丁寧に文中この語はゴシック体でルビが振られています。もう一つ時代を反映しているのが、フクロのすみかの近くの森が、石井訳だと「百町森」、森訳は「100エーカー森」(英語では100 Aker Wood)と訳されている点です。(「町」は江戸時代の距離の単位で一町は約109メートル。また1エーカーは約400平方メートル、一辺の長さが約63メートルの正方形です。)今では「百町」といってもどれぐらいの長さなのかわかりませんね。それから、プーはおっちょこちょいで忘れん坊、ちょっと間抜けなクマなのですが、石井訳ではときどきおじさんのようなしゃべり方をしているのが今読むと気になりました。

ところで、プーはぬいぐるみのテディベアだということを忘れてはいけません。『クマのプーさん』は、著者のA.A.ミルンが息子のクリストファー・ロビンをモデルにして書いた童話です。イギリスのこどもたちは小さい時から自分のお気に入りのクマのぬいぐるみを大切にしており、今では日本でもテディベアは大変人気ですが、テディとはどんな意味なのでしょうか。1902年、第26代アメリカ大統領セオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt, 1858-1919)が狩猟中に子熊を助けたというエピソードから、彼の名に因んでクマのぬいぐるみをテディ・ベア(Theodoreの呼び名Teddyから)と呼ぶようになったといわれています。面白いのは、ぬいぐるみとはいえプーはクリストファーの持ち物ではなく、対等な友達関係にあるということです。ほかの登場人物にしても賢い年長者は年少者から敬われ、小さな事件が起きますが、みんなの力によって森の平和が保たれます。

クリストファー・ロビンに片手を引かれて子供部屋のある二階から、さかさまに頭をゴツンゴツンと頭を階段にぶつけながら下りてきたプーは、パパのお話が終わるとまた片手を引っ張られて二階に帰っていきます。プーの仲間たち、ピグレット(コブタ)、ロバのイーヨー、ラビット、オウル(フクロ)、トラのティガーそしてカンガとルーの親子もすべてクリストファーの子供部屋にあったぬいぐるみなのです。TPPはアメリカを除く11か国で再交渉中だといいますが、著作権の保護期間は今のところ変わりはないということで、今秋には『クマのプー』の続編『プー横丁にたった家』の新訳が出版される予定だそうです。この後も、アメリカがTPPに参加しない限り、著作権の切れるチャンドラーやヘミングウェーの新訳が次々と出版されるそうで、昔の翻訳に親しんだものとしてはこれもまた楽しみの一つになります。