大妻多摩中学高等学校

【校長室より】大妻多摩生らしくあれ

大妻多摩生らしくあれ

大妻多摩らしく①

新年度にあたり、それぞれの立場にふさわしく「大妻多摩生らしく」行動するように努めるようこころがけましょう。「らしく」と言っても、最近問題になっているような「男らしさ」「女らしさ」という言葉に囚われるということではありません。コタカ先生の「らしくあれ」とは、状況に応じたふさわしい振る舞いをしなさいという意味ですが、ここで改めてコタカ先生と女子教育について考えてみたいと思います。

1908年(明治41年)の私塾開設当初のコタカ先生の教育目標は、すべての女子が経済的自立できるようにと裁縫の技術を教えることでした。そして学院が創立されてからは「理想は高遠に実行は足下から」というように、先生は学問の理想を高く掲げて一歩一歩しっかり踏みしめていけば理想が実現すると生徒たちに教えました。先生は「どんな事柄に突き当たっても悠々と善処するだけの実力と応用自在の力が必要です」とおっしゃるように、学校で受けた教育が社会にでて応用できなければ本物の実力とはいえないと考えました。

小学校のころから下級生に教えることが好きだったというコタカには教師としての天賦の才があったと思いますが、その一生は必ずしも順風満帆だったわけではなく、次々と災難が襲います。関東大震災での校舎焼失、そして第二次大戦の空襲により再び校舎は焼失し、最大の支えだった夫良馬の死、そして戦後まもなくには公職追放という目にあいます。自伝『ごもくめし』を読むと、1947年(昭和22年)、「多くの学校の校長でありながら、あらゆる婦人団体に相当な役割をもった故をもって追放する」と文部省適格審査から通知を受けとり、約4年半、学校への出入りは一切禁じられた、とあります。この審査はGHQ連合軍総司令部の指令に基づいたものなのです。空襲で住まいは焼け、校長室に寝泊まりしていたコタカは即座に学校からの立ち退きを命じられ、学校には新校長が着任、新校長が前の校長を庇護すると校長が免職になるということで学校からはなんの援助も得られません。そのうえ、大妻という名称までも変更を迫られ、コタカは学校のある千代田区に住むことも禁じられるのです。

コタカは学校の長として、第二次大戦中から全国を駆け回って女子教育の重要性について講演活動をしたり、さまざまな取材を受けたり、ラジオの放送をするなど、一国民として、また一人の教育者として時局に向き合い、日本人として何が出来るか活動をしたといいます。自ら贅沢をいましめ質素な生活をしていたコタカですが、国民精神総動員の中央本部では贅沢全廃委員会の委員も務めます。また彼女は、婦人団体の幹部として戦意高揚の講演などをたびたび行いました。その言葉には自己の利害を捨てて、国民一致団結して時局を乗り切ろうとの意気込みと、自らを含めて戦時における女性の使命感と責任感が感じられます。しかしその言動が公職追放につながるのです。コタカは、他の女性教育者たちとともに、女性の声を少しでも反映させるために講演をしたり、婦人団体に入って活動をしてきましたが、進んで政府や軍部に協力したというわけではなかったといいます。男性が戦争に行った後の国を護る、つまり銃後の守りを固めることは当時の女性の務めであり、決意でもありました。コタカの、生徒たちを慈しみ励まし、戦争という困難に立ち向かおうという精神が、結果としては、多くの女性たちを中国大陸へと駆り立てる政策にも荷担してしまったのです。戦争中のことはあまり語らず、あまり書き残してはいないのですが、コタカにとってはこのような行動は日本人として当然のこと、行動しないことこそが恥ずべきことと考えたのでしょう。戦後の公職追放では、政界、財界、教育界、マスコミ界など、戦争に協力したとして20万人が数年間、公職を追放されました。大妻学院が今あるのは、コタカ先生が幾多の苦難をかいくぐってきたからこそできたことなのです。みなさんも折に触れてコタカ先生の歩んできた道を図書館などで調べてみるのもよいことだと思います。