大妻多摩中学高等学校

【校長室より】「大妻女史が全財産を寄付す」

「大妻女史が全財産を寄付す」 昭和4年6月5日付『大陸日報』(カナダ、バンクーバー)

大妻女史財産全額寄付

大妻コタカが1908年(明治41年)に裁縫と手芸の私塾を開いて以来、大妻技芸学校創立、夜学の併設と学校は規模を拡大し、1922年には木造5階建ての新校舎が落成します。しかし、翌年の関東大震災で校舎は焼失してしまいます。コタカは失意にうちひしがれる間もなく学校再建に奔走し、大妻良馬とコタカ夫妻の悲願だった財団法人大妻学院認可にあと少しというところで、良馬は病に倒れ、1929年(昭和4年)3月17日には帰らぬ人となります。かねてから良馬は自らの生活費を得るために学校経営を行わない、遺産を残す子どももいないので財産はすべて学校のために使うと公言してきましたが、コタカもまた夫の遺志を継ぎ全財産を学校に寄付する決心をするのです。

このニュースは、「大妻女史が全財産を寄付す-財団法人を組織」という見出しのもとに、日本からはるか離れたバンクーバーの日本人移民のための新聞『大陸日報』にも掲載されました。

「女子教育のためにそのすべてを捧げてきた大妻高女校長大妻コタカ女史は、夫君良馬と永別したが、子どもがいないところから大妻家を廃家し、大妻高女、同技芸所学校の敷地、校舎その他を加えた全財産を寄付して、新たに財団法人大妻学院を設立することになった。……大妻女史は身一つになって、一校長として女子教育に努力することとなった。女史は語る。『子どもがないため、大妻家は私一代で廃家することは前々から考えていたことで、それを実現したわけです。私もこれからは、校長として俸給を学院からいただくことになりました。』」(一部現代語に変えてあります。)

1945年(昭和20年)の東京大空襲で木造校舎のすべてと鉄筋校舎の一部を焼失、自宅も焼失したコタカが住居としたのは校長室でした。このような窮地に追い打ちを掛けるように、校長でありながら、あらゆる婦人団体に相当な役割をもったという理由で、コタカは公職を追放されます。文部省からこの通知を受け取った日からコタカは学校への立ち入りを禁じられ、「これまで一途に学校のためにと思っていた私には、一坪の土地も一軒の家も、一銭の貯金もなく」(『ごもくめし』)、学校からの援助はまったく受けられず(「校長が追放の前校長を庇護すると、校長が免職になる」『ごもくめし』)、学校のある千代田区に住むことすら許されなかったといいます。

1952年、約4年半の公職追放が解除され理事長に就任したコタカは、1954年には教育功労者として藍綬褒章を受章、1964年には勲三等宝冠章を受章し、1966年には創立60周年の祝賀祭が盛大に日本武道館で行われます。しかし体力の限りを尽くして学校の繁栄に尽力したコタカはついに病を得て1970年に85歳の生涯を閉じます。「大妻コタカは、人生のすべてを大妻学院に捧げ尽くした。住まいは、三番町の校内に建てられた学寮の玄関脇にある一間。……コタカは私財をすべてつぎ込み、みまかっていった。大妻学院と数万を数える卒業生だけを残して。」 『三番町のコタカさん-大妻コタカ伝』(工藤美代子著)はこのように締めくくられています。一時は「大妻」という学校名すら変更を迫られたコタカでしたが、私利私欲なく女子教育に一生を捧げたからこそ、大妻学院を守ることができたのだと思います。

『大陸日報』の記事は、カナダ移民研究をしている麻田恭一氏より提供していただきました。