大妻多摩中学高等学校

【校長室より】平和への祈り

平和への願い

平和への祈り①

10月1日、東京駅を朝8時10分に出発したのぞみ15号は12時半に広島駅に到着、中学3年生は駅からバスで広島の原爆爆心地にある原爆ドームに到着、それから平和記念公園をまわり、原爆の子の像の前で千羽鶴の献納をし、平和記念資料館を見学しました。この見学に先立ち、71年前に被爆した体験をもつ切明千枝子さんのお話を伺いました。現在87歳になるという切明さんは爆風でけがを負ったものの大事には至らず、瀕死の大やけどを負った友人の「水を飲みたい」という願いをかなえることができなかったという後悔の念を話してくださいました。当初はそれが原子爆弾という恐ろしい凶器だとはだれも知らず、やけどを負った人に水を飲ませると命の危険につながるという大人の言葉を守ったのだといいます。水を飲むことなく亡くなった友人に対して、切明さんはずっとこのことが心に重くのしかかっていたといいます。

戦後71年が経過し、「語り部」となって戦争の悲惨さを知らない中高生に自らの体験を語り継ぐ、切明さんのような被爆体験者の数は毎年減りつつあるといいます。また毎年8月6日に平和記念公園の原爆死没者慰霊碑前で行われる広島平和記念式典でも、被爆体験者の平均年齢が80歳以上と高齢化してきたため当時を知る参加者が減り、参加も子や孫の世代に引き継がれようとしています。

第二次世界大戦末期の1945年3月9日、アメリカ軍による焼夷弾を用いた爆撃により、東京ではたった一晩で10万人もの民間人が犠牲になりました(東京大空襲)。そして8月6日の広島への原爆投下では14万人が、9日の長崎への原爆投下では7万4千人の民間人の犠牲者が出たということです。市街地の建物はほとんど破壊され、生き残った人々も後遺症に悩まされ、原爆による5年後の広島での死者も含めると総数20万人、長崎は14万人が死亡したと言われます。また1945年3月から6月にかけての沖縄戦では20万人もの軍人と民間人が犠牲になりました。敗戦色が濃くなった1945年に、追い打ちをかけるように大都市への空襲が実行されたとはいえ、広島・長崎では原子爆弾という核兵器を用いた大量虐殺が行われたこと、そして世界で唯一日本だけが被爆国であることは偽りのない事実なのです。

広島記念公園には毎日のように日本の多くの小中高生が訪れ、原爆ドームや資料館を見学することにより平和の大切さを学んでいます。また近年海外からも多くの人々が広島を訪れ、核兵器の恐ろしさを再確認するとともに、世界平和の願いを共有しようとしています。オバマ大統領が当地を訪問してからは、特に外国人の見学者が増えたといいます。原爆投下は第二次世界大戦を終息させるため、世界中にさらなる犠牲者を増やさないため、莫大な費用を使って開発した原爆の威力を国内外に見せ付けるため、というアメリカの主張は言い訳にしかすぎません。焦土と化した広島は見事に復活しました。人や物の流通がグローバル化するだけでなく、戦争すらもがグローバル化している今こそ、核兵器のない平和な世界を実現することは日本人だけでなく、世界中の人々の願いなのです。

今回の中学3年生の修学旅行ではその黒塗りの壁面から鵜城とも呼ばれる岡山城と、真っ白な漆喰が鮮やかな姫路城(別名白鷺城)を見学しましたが、ガイドさんのお話から、いずれも戦争が大きくかかわっていることがわかりました。岡山城は1945年の岡山大空襲で炎上焼失、その後1966年にコンクリート製で復元されました。そして広大な敷地にそびえる白壁の姫路城は黒く塗った縄を編んだ網で全体を覆ったため上空から見えにくくなり、姫路は実際には空襲にあっていますが、壮大なお城の焼失は免れたということです。

このように広島に始まり、倉敷、岡山、姫路と旅した旅行は、先の戦争を意識せざるを得ない貴重な体験となって生徒たちの心に深く刻まれたと思います。