大妻多摩中学高等学校

【教員つれづれ草】第240段

 教員同士で話をしていると、どうしても理屈っぽくなることが多い。大人の社会なのだから当たり前だろう。自分の教育観を語り説得しようとすれば、論理的であらねばならない。今の教育改革も、まさに「論理的思考力」をどのようにして身につけさせるかが本丸となっている。

 だが、私も生身の人間なので、「論理、論理」とその応酬が続くと息の詰まる思いがする。寅さんではないが、「理屈を言うんじゃないよ! 大事なときに」と叫びたくなるときもある。ちなみにこの台詞は第217段で記した。
ところが、生徒と会話をすると、論理的でないことが多い。私たちはそれを「幼さ」の一言でまとめてしまうのだが、逆にとても人間的であると感じることも多い。

 受験生といえども、やはり勉強はつらいものだ。楽して合格したいと思うのも無理からぬことだろう。私たち教員は、このようなとき、そう思う生徒を、論理的に説得しようとしてしまう。理詰めで追い込み、「だから勉強しなさい」という論法だ。私もそう言ってしまうことがある。

 しかし、冷静に考えると、そう言われて「だから勉強しよう」と思うのだろうか。理屈では分かっていてもできないから人は苦しむのである。

 大切なのは、論理的でなくても同じ目線で生徒の話に耳を傾け、共感してあげることなのではないか。大学受験は誰もが初めての経験である。不安を感じて当たり前だ。ほんの少しでもその不安に共感し、理屈で励ますのではなく、心で励ましてあげたいと、年を取ったせいか、心からそう思うようになった今日この頃である。

井の中の高野聖