大妻多摩中学高等学校

【教員つれづれ草】第236段

何のために人は勉強するのだろうか?

以前、つれづれ146段で、「寅さん映画」の場面から、このことについて考えたことがある。簡単に言うと「立派な大人になるため」だろう。しかし、生徒はどうしても点数を取ることに躍起になる。これを否定するものではないが、大切なのは、「試験で良い点数を取るために勉強するのではない」という自覚があるかどうかである。

数学の勉強は、その問題が解けるようになることを「究極の目的」とはしてないだろう。数学の学びを通じて、「論理的思考力」を身につけることが目的である。他の教科も、試験で良い点数を取ることが最終目的とはなっていない。試験は「究極の目的」を実現するための「手段」なのである。

だが、生徒はどうしても試験に執着する。しょうがないだろう。しかし、その責任の一端は我々教員にもあるのかもしれない。「試験という強制力によって勉強させる要素」が強すぎるのだ。私たちがもっと各教科の学びを通じて、「立派な大人になるため」ということを、説得力のある言葉で訴えなければならないだろう。テストで惹きつける手法のみでは「勉強嫌い」を生むだけである。

生徒から「勉強は嫌い」と言われると、自分の授業の至らなさを痛感する。目の前の生徒を惹きつけることのできていない力量不足を反省するばかりである。
「勉強しなさい、テストで良い点数を取りなさい」という声かけだけでは限界だ。いや、むしろ弊害もあるのかもしれないと思いつつ、生徒の「探究心」「主体的意欲」の芽を育てていかなければいけない。

井の中の高野聖