大妻多摩中学高等学校

【校長室より】2019年度 中学入学式

 

みなさん、大妻多摩中学校ご入学おめでとうございます。
保護者の皆様、お嬢様がたのご入学を在校生、教職員一同お祝い申し上げます。

真新しい制服に袖を通して、大妻学院多摩キャンパスの正門を通った気持ちはいかがですか?入学試験の時の緊張とは全く違う、軽い足取りで階段を上っていらっしゃったと思います。今日からみなさんは大妻多摩中学校の生徒です。
大妻多摩高等学校は今から30年前の1988年に多摩キャンパスに設立され、それから6年後に中学校が設立されました。大妻多摩中高は平成とともに歩んできたのですが、このたび元号が「令和」と変わることになりましたので、本校にとっても皆さんにとっても新鮮な気持ちで新学期を迎えることになりました。明治・大正・昭和という3つの時代を生きてきた創立者大妻コタカのことは、これからも何度もお話しする機会があると思いますが、今日はコタカがみなさんと同じ10代のころのお話をしましょう。

故郷の広島県世羅郡の山村に育ったコタカは地元の川尻尋常小学校に通うのに約3.3キロの道のりを徒歩で通いました。3キロというと大人の足でも1時間近く、起伏のある山道ですので小学生の足ではもっとかかったと思います。そこは校長と教員二人の小さな小学校で、当時は成績の良い上級生が下級生を教えていました。体育と算数が得意のコタカは、校長先生から下級生の教え方がうまいとほめられたことから、将来教師になろうと思ったといいます。先生は「なせばなる、なさねばならぬ何事も、ならぬは人のなさぬなりけり」という諺を話してくれたといいます。これは努力をすれば何事も成就するという意味です。当時は女子には学問には不要だという時代でしたが、「男子に負けてはいけない。がんばりなさい」と励ましてくれた先生と母親のおかげで、コタカはトップで高等小学校を卒業します。その後コタカは17歳で母校の小学校の代用教員になりますが、さらに勉強をしたいという気持ちが抑えきれずに、故郷広島からから夜行列車を乗り継いで30時間以上かかって上京を果たします。コタカは本当は物理や数学を勉強したかったのですが、得意な裁縫の技術をさらに磨こうと考えました。

東京では御徒町の叔父の家に下宿、叔母の手伝いをしながら、九段にある学校まで徒歩で通学します。朝は4時に起きて家事をすませてから登校。帰宅後も洗濯ものの片づけから夕食の片づけなどがあり、手伝いを終えた夜10時から12時までの2時間で復習や下調べをしたといいます。電車ですと今は6駅、徒歩で約1時間かかる道のりを、前を歩く人をどんどん追い抜いて歩いたそうです。「そうだ、これが人生だ。人を突きのけるのではなく、自分が勝つには努力あるのみ。」今でしたらスポーツウェアにスニーカーなら歩きやすいですが、コタカの時代は着物に下駄です。新しい下駄の歯はどんどんすり減り、雨用には高い歯、それがすり減って低くなれば晴れの日に履いて、下駄はいつも二足用意していたと言います。コタカは最初の一年は洋裁を習い、授業中は一筋でも多く縫う、一枚でも多く作ることを実行し、「なんでも覚えたい、習いたい、そしてそれを土台に新しい工夫をしたい」と思って生活していました。和洋裁の学校に通うかたわら、教員養成の学校にも通い、教員免許を取得、絵画や修身、体操などの講習会にも積極的に参加し、検定をパスして免許も取得しています。20歳で学校を卒業したときは、卒業制作として当時ではまだ珍しい洋装のドレスを縫いました。

今から100年以上前、生徒同士で教えあって知識の定着を図るのは現代のアクティブラーニングに匹敵します。またコタカは、歴史的事実と年号を丸暗記するのではなく、どうしてそのような史実が起きたのか様々な事件や人物の関係を読み解くこと、つまり探究が大切だと言っています。コタカは教員資格を得た後は、自分の後に続くように学校を開設して女子に教えることによって自立の道を開きました。仕事を持っている女子のために夜学を開いて裁縫の技術を教えたのもコタカです。このようにコタカは今から100年以上前に、女子が社会で活躍する土台を築きました。

みなさんはコタカの子ども時代とは比べ物にならないほどの環境の恵まれた現代に生活しています。大妻多摩には皆さんにはやりたいことは何でもそろっていると思います。ご両親の愛情に感謝して、将来の夢に向かって思う存分勉強をしてください。勉強だけでなく、おうちの手伝いをすることも忘れないでください。みなさんがこれから学校生活を楽しく過ごせるよう、先生方も在校生のみんなもサポートを惜しみません。