大妻多摩中学高等学校

【校長室より】2019年度 高校入学式

20180410校長室より_桜①

 

みなさん、大妻多摩高等学校ご入学おめでとうございます。

中学に入学してからあっという間の3年が経過し、いよいよ大学進学を目指す高校での勉強が始まります。
「人生100年時代」といわれる今日、医療、福祉、衛生、栄養、テクノロジーの進化により、10代のみなさんの半数は100歳まで生きることが統計上わかっています。そこでみなさんは、教育、仕事、退職後という3つのステージではなく、多様なステージを選択して人生を送ることが可能になってきます。言い換えると、大学入学が教育の最終目標ではなく、仕事をもってからも学びなおしをするとか、子育てが終わってから新しい勉強を始めて資格をえるなど、多様な選択が可能になる時代がやってきます。

さて目の前の大学入試、そしてさらにその先の社会で貢献するにはどのような職業に就けばよいでしょうか。こういう問いに対して、おそらく医師、看護師、理学療法士、薬剤師など医療関係の職業が頭に浮かぶのではないでしょうか。

昨年はいくつかの大学医学部入試において、女子学生に対して合格者数を意図的に操作して減らすという差別が行われていたことが明らかになりました。これは、女性医師が働きやすい環境を国や医学界が整備することなく、「結婚や出産で離職する女性医師がきわめて多い」という誤った先入観に基づき、医師として仕事を続けられないのは女性本人の理由であるかのようにとらえてきたからです。さらに、「女子はコミュニケーション能力が高く、男子を救うために補正した」などという大学関係者からの的外れな発言はあきれるばかりです。

歴史的にみて、女性医師の誕生は差別との闘いでしかありませんでした。英米で女性医師養成学校を設立し、「世界発の女性医師」と呼ばれたイギリス人のエリザベス・ブラックウェルは、女性医師がいないことから不当な目にある女性たちを目にして、自ら医師になる決心をしますが、多くの医学校への入学を拒否され、一校だけ入学を許された学校でも差別や嫌がらせを受けますが優秀な成績によって医師になり、女子医学校を設立します。
日本における女医のパイオニアは荻野吟子といわれますが、彼女も女性医師の必要性を切に感じた一人でした。女子に学問は不要という時代に吟子は袴に高下駄という男装をして学校に通い、女性と言う理由だけで開業試験も拒絶されますが、その実力が認められて明治18年に政府公認の産婦人科医院を開業します。

このように女性医師誕生には欧米・日本を問わず、優れた先駆者がいたから実現したからですが、日本において女性が医師として正式に認められるには、明治33年(1900年)に東京女医学校(東京女子医科大学の前身)を創立した吉岡弥生を待たなくてはなりませんでした。
弥生は大妻学院創立者の大妻コタカより13歳年上ですが、コタカは自伝『ごもくめし』の中で、忘れえぬ人の中に彼女の名前を挙げています。弥生は何かにつけて年下ではありますが、大妻学院の前身である女子高等女学校の校長をしていたコタカを引き立ててくれ、彼女が苦難に陥ったときによき助言者となったといいます。

「女性は匂いやかなれ」という言葉はコタカが好んで口にしたり書いたりした言葉ですが、もともとは弥生の著書にあった言葉だということです。「たとえ平凡な一人な女性であっても、私一人がそこにいることによって、何か周囲の人々のために、女性としての小さなつとめを果たすことが出来るならば幸いであると思います。『女性は匂いやかであれ』 私どもはいつもなごやかな女性らしさ、ふくよかな女性らしさを失わないように、心したいものであります」

吉岡弥生は、男性中心の医学界において、女子に医師免許を与えるための学校を設立するにはどれほどの苦労があったかと察せられます。弥生の苦労を共有したからこそ、コタカは周囲の人に光を投げかける「女性としての社会における役割」を重要だと考えたのでしょう。この言葉には、女性は女性らしさを生かしながら社会に役にたってほしいという弥生とコタカの願いが込められているようです。