大妻多摩中学高等学校

【校長室より】世界初の女性医師

エリザベス・ブラックウェル、世界初の女性医師

朝日新聞(2018.8.4)は、東京医科大の女子学生に対する減点問題を受けて、日本における女性の社会進出の遅れを取り上げた欧米各紙の記事の抜粋と、フランスとフィンランド大使館のツイートを載せています。フランスでは大学医学部の女子学生の割合は2000年の57.7%から2016年の64.1パーセントに上昇したこと、さらに2021年には医師の男女同数が実現される予定ということです。またフィンランドでは女性医師の割合は2016年OECD の調査で57パーセントと世界で3番目に高く、ワーク・ライフ・バランスが重視されていると書いています。日本はというと全世代の医師の男女比は2017年OECD主要35か国中最下位の20.3パーセントという結果。トップはバルト三国のラトビア、エストニア、リトアニアで女性医師は7割です。アメリカは34.6パーセントと意外と低い。35歳未満では、主要国で女性医師が5割を超えているのに対して、日本は30パーセント程度、やはり最下位です。

さて英米で女性医師養成学校を設立し「世界初の女性医師」と呼ばれたのがエリザベス・ブラックウェルです。1821年イギリスのブリストル生まれのエリザベスは、父の事業の失敗から一家でアメリカに移住。女性医師の不在から不幸な目にあう女性たちの話を聞き、自ら医師になる決心をしますが、19世紀半ばのアメリカでは医学校への女子入学などありえず、ことごとく入学を拒否されます。ただ一校だけ入学を許可された学校でも男性教授や男子学生から差別や嫌がらせを受けながらも、優秀な成績により次第に存在を認められるようになります。彼女は外科医を志しますが感染症から片目を失明して断念、イギリス人看護師のフローレンス・ナイチンゲールを知ったことから女性医師養成機関の必要を感じるのです。おりしもアメリカでは南北戦争が勃発し、エリザベスは多くの負傷兵の看護にあたり、戦後の1864年にはリンカーン大統領への謁見を許され、68年には47歳でニューヨーク病院付属女子医学校の設立を果たします。(『世界最初の女性医師』社団法人日本女医会、『世界の伝記、エリザベス・ブラックウェル』集英社)

エリザベスが女医を志したきっかけは、男性優位の19世紀社会において彼女が感じた、男性医師に対する威圧感と羞恥心でした。日本初の女医となった1851年生まれの荻野吟子の場合もエリザベスと同様の動機でした。男性医師に権威的に診察されることの屈辱から女性医師の必要性を感じ、医師になる決心をしますが、女子には学問は不要という当時の男尊女卑の風潮から彼女の熱意はくじかれます。ようやく入学を受け入れてくれた私立医学校に通う時も、吟子は袴に高下駄という男装をして勉学に励みます。次に彼女を待ち構えていたものは開業試験の願書提出でした。女性であるという理由からすべて却下されますが、支援者の助けによって試験に合格。1885年(明治18年)35歳で政府公認の女医が誕生し、産婦人科荻野医院を開業します。

荻野吟子の生涯は渡辺淳一の『花埋み』(1970、河出書房新社)に描かれていますが、子どものころから勉強家だった吟子が女医になるべくさらに学問に打ち込むことについて渡辺は、「学のある才女は、畏敬されこそすれ、裏では女だてらに変わり者よと指差されるのが落ちだった」と書いています。また女医については「考えてもみられ、女子には妊娠という厄介なことがある。その度に患者を手放さねばならん。これは不安で、とても患者を委ねるわけにはいかん」という当時の男たちの意見が書かれています。

上記の記述は、「女性は結婚・出産・子育てのため離職率が高いから」と、入試で女子学生に対して減点した理由とさほど変わりません。これは大学医学部だけの問題ではなく、21世紀を20年近く過ぎた今でさえ、女医だけでなく女性がリーダーとして働くためのさまざまな条件が日本社会において整っていないからなのでしょう。ブラックウェルと荻野吟子が女医を志したその根底には、ブラックウェルには父から受け継いだ奴隷解放運動の、吟子には女子の権利獲得運動がありました。日本において女性が医師として社会から正式に認めてもらうためには、1900年、東京女医学校(東京女子医科大学の前身)を設立した吉岡弥生を待たなくてはなりませんでした。